<エッセイ>
等身大の自分探し
2004年のしめくくりに。
いつも自分らしくしようと思っているのに、 はっと気づくと、とても無理が生じていることがあって、
ちぐはぐな、 気持ちばかり先走っている、目も当てられないような自分になっていることがある。そんなのを発見してしまったときなんか、
自己嫌悪。 そんなことをくれかえしていると、いつも一人で部屋にいる時でさえ、
人の目を気にしているような気がする。
もしかしたら、私は普通の人より妄想癖が強いのかもしれない。
考えてみると、小さい時から、他人の目を過剰意識したり、人の顔色を(心を)うかがっていた。今それが、過剰だったのかもしれない
と思い始めたところ だ。そしてその癖が、今の私の中にしっかり根付いてしまっているみたいだ。
なんでだろう、自分がなにか意見を言おうとする時、根拠もなしに、とてもびくびくするのは。おこられる、とまずかまえてしまうのは。
そしてどこか私のす べてはあなたにはわかるはずがないと、投げやりな気持ちになっていってしまうのは。
そんなことを自分の中で やり取りしてるうちに、卑屈なものをどんどん自分の中に溜め込んでいってしまっている。どんどん、自分の中だけの会話が始まり、どんどん自分から自分が離れていき、
言葉に出すのが恐ろしくなり、言葉につまり、結局相手に本心が届かない。
私はただ単に、言葉にするのが苦手だとか、自分の意見がしっかりしていないとか、話を簡潔にしゃべれないとか、どこか話すための技術が身に付いていない
からと思っていた。だけど、なんだかそれ以前に、なにか無意識に感じるのか、その妄想癖が原因なのではないかとうっすら思えてきた。
きっと、こうなんじゃないかな。きっと、こう思ってるんじゃないかな。もしかしたら、こう思っちゃうかもしれない、そしたら迷惑になっちゃうかもしれな
い。もしかしたら、こう思われちゃうかもしれない、私はそんな意味でいってる訳じゃないのに。ああ、嫌われちゃったらどうしよう、面
倒な奴だと思われた くない、面白くない人間と思われて、離れていってしまったら...あああ。ほんとびくびくしすぎ。冷静に書いてると、こんなこと思ってるから自分が見え
にくくなってるんだときがつきます。見えにくいから、よけい怖くなってしまうのです。そして自分で何が言いたかったのか、わからなくなってしまう。あや
ふやなまま、タイミングは消えていく。
私が得意でないと怠っていること、苦手なことは 人とちゃんと会話すること。最初の出だしはよくても、どんどん自分の中が空っぽになっていって、底が見えてしまうきがする。だから自分の知識や浅さに自
己嫌悪。そしてつまらない人間と思われたかもと妄想。結局、そこに相手のことなんか見えてないのだ。自分の見え方だけを意識している、余計つまらない人
間になってしまっているのだ。そして、話しながら、そういう風に見えているのも薄々確信しながら、リラックスしたらほんとはもっと面
白い自分なのにとま た自分のことばかりを考えてしまっていたりする。
癖として、自己認識していくしかないのかもしれない。ああ、また、この癖がではじめたぞ、と。ただ人と関わっていくのが怖いとか自分の気持ちをじめじめ
いってるんじゃなくて、そんな癖を持っている自分なのだと、その癖とうまくつきあっていくという意識が大切なのかもしれない。
自分を肯定してあげなければ、人にやさしくなんかできない。自問自答を繰り返していては、人のことなど思う余裕はないのだ。余裕をもたせるためには、ど
んなときでも、心が落ち着いた状態で自分が快適にいれるように、好きなところ、嫌なところ全部ひっくるめて、自分というものをわかっていくことなのかも
しれない。 ああだこうだと、とぐろのように考えてしまうところも、ぽか〜んと自然の粒を全身に感じられて、明るい幸せな気持ちになれるところも、このお茶が好きだ
とか、ビールは美味しいと感じないとか、もっともっと、人からみた自分を想像するのではなくて、自分からみた自分をちゃんと見て、見つけていく、おもし
ろがっていくことが、自分とうまくつきあっていく第一歩のような気がする。
自分を客観的に見る方法として、いちばん手っ取り早く簡単なことは、紙に書くということだと私は思う。何かとあれば、紙に書いたり、日記にアップした
り、弱音を無意識のうちに紙に書いている。紙は神なのかともとふと思う。うだうだと書いていくうちに、とぐろを巻いていたよくわからない固まった気持ち
はほぐれて、らくになる。自分から出てきたものを自分の目で見て、思っていたほど大変なことではないと認識して安心するし、書くというパワーでいい疲労
感が気持ちを和らげてくれるからかもしれない。曲をつくったあとの心地よい疲労感とも通
じるところがある。
私は自分だけにでも何らかの形にして表現する ことで救われていることがたくさんあると思う。ピアノの音をポーンと一音響かせただけでも、すーっとすることもあるし、お水をひとくち飲むだけでも、気
持ちがふわっとすることがある。そんな気持ちを感じられるときっていうのは考えてみると、何かに救いを求めてる心が、敏感に幸せを感じるなにかを察知し
ようと、耳をすましたり、いつもより繊細な味覚になっていたり、見えるもの、ふれるもの、感じるもの、がつややかに、きらきらドラマティックにしてくれ
ているのかもしれない。 どんなにお先真っ暗というときでも、必ず不思議と、心が動く時があって、重い腰も心任せに勝手に足が向かって、なんらかのところ
にたどりつき、必ず光を感じさせてくれる。また、そういう心に任せたときに出会うもの、感じるものは、ほんとうに感動する。
私は直感というもの、感じとるもの、は大切にしたいと思っている。それが妄想癖につながるのも無理はないけど。人間が感じ取れるものっていうのは無限だ
と思う。感じようとすれば、なにか感じられるものなのだ。へんな話かもしれないけど、例えば公園に行って、またきたよ〜って問いかければ、何かしら迎え
入れてくれて包み込んでくれているやさしさを感じたり、あるとき、なんかいつもと違って森が淋しそうだなと思えば、歩き進んだところが工事にみまわれ
て、木が倒されていたり、またある時は、帰れと、追い返されることもあった。多分そこでせっかくきたのだからとずんずん公園に踏み込んでいったら、きっ
となにかしらがおこってたかもしれない。でも追い返されたことは一回しかなくて、行くたびに、装いをかえて迎え入れてくれる。自分の悩みなどを問いかけ
ると、自然に答えがかえってくる。それはあらかじめ自分でわかっていたことかもしれないけど、私は森がそういう答えをリラックスさせて見つけさせてくれ
たと感謝している。ある意味森は私のお悩み相談所で、私を私以上にわかってくれて、見守ってくれているものなのだと思っている。
私にはそういう特別な所 やものがいくつかあって、それらがどんなに離れていてもなにかでつながっていて、私をわかっていてくれていると、ほっとできる同じ感覚をおぼえるのだ。
やはり、新しくそういうものに出会うときは、心まかせな時なのかもしれない。
人の気持ちをできるだけわかるようになりたいと思っている。すべてはわからなくとも、気持ちを察してあげられることができたらと思う。
それには妄想癖がどうにもじゃまなのである。(一時中断)いま、韓国海鮮インスタントラーメンに冷凍エビと豚もも肉を長ネギを加えて、あつあつのをふー
ふー食べはじめながらこの行を書いているわけだが、あったかくて、おいしくて、ピッリッと刺激があって、まろやかで、味わいがあると、なんとも体中、心
中がまんべんなくほかほかと、まあるい気持ちになってうれしくなっている。 最初の行を書き始めた時に比べると、まるで違う心持ちになってるように思われる。気がつけば、太陽も高い位
置から差し込んで、気温もあたたかくなってき たかもしれない。
妄想癖が、もしかしたら、自分の中にある人の気持ちが少しでもわかってあげられたらという小さなやさしさから、変な形に変化してしまったものがまじって
いるのだとしたら、妄想を推測に、推測を相手の本当の気持ちを確かめること、へと少しずつでも変化できそうなきがしてきた。考えてみれば、相手だって、
勝手な変な妄想の中に閉じ込められて、うじうじといろんな思いをめぐらせられて、何もしていないのにびくびくされていては、気味が悪いであろう。ああ、
なんて私はばかなんだろう、妄想を相手を思いやる気持ちと混同していたのだ。あああ。
私は家族や友達や出会う人たちにめぐまれている。私を私以上にわかってくれていて、雪絵ちゃんてこんなとこもあるよねと指摘されて、ああ、そうかもしれ
ないと発見させてくれる人もいるし、素直に受け止めてくれているのに、自分の中ではなんかへんなことを考えだしている時もある。それは見栄だったり、欲
だったり、願望だったり、人から見て自分がおかしくない様に見せようだとかする等身大以上の無駄
なものなのだ。等身大を少しずつ磨いたり、鍛えたりし て、自分で成長させていくしかないのである。
またこれから、同じことに陥ることもあるとおもうし、でも、また解決策やら、原因に気がついて、繰り返して、その時の等身大そのものの気楽なおばあちゃ
んになっていけたらいい人生かなと思う。ああ〜、思いつくことは出てくるけど、すっきりした。等身大の自分になるために、そして相手の気持ちが少しでも
察してあげられることができる人間になるために、あせらず、ひとつづつ見つけていこうとおもいます。
2004年12月30日朝からお昼過ぎにかけて。昨 日の雪が光を含んでいる晴れ。